Spiricareでは、善行の一環として「すべての命の平安と幸せを願う」ことを推奨しております。
お釈迦様の言葉に「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」つまりすべての生き物は、仏になる可能性がある、というものがあります。
憎いあの人も、庭に生える雑草も、畑や家の中に湧く害虫や害獣も、すべて仏になる。自分に親しいもの、愛するものの幸せを願うだけなら簡単ですが、憎いもの、関心のないものもすべて、世界のどこかには必要であり、仏になる可能性を持っている。
このことを理解するのは大変です。
しかし、神仏は時として、とんでもない大悪人を許します。
また、古典を読めば「悪人が一生懸命に仏に祈り、極楽浄土に生まれ変わることができた」といった一見、理不尽な事例も出てきます。
こうした事例を考えると、すべての命が苦しみから解放され、平安であることを祈るというのは、究極の善行ではないかという考えに至りました。
具体的な言葉としては下記。
- すべての命が平安でありますように
- すべての命が幸せな生を全うできますように
- すべての命が罪を許されますように
すべて唱えます。
選んで唱えてはいけません。
仏教では、この世は苦であると考えます。生・老・病・死の四苦、思い通りにならないことから生じる八苦。四苦八苦の語源ですね。
また、因果応報でよいことも悪いことも、自分に戻ってくる。悪いことをして地獄に落ちる人もいれば、人を殺して虫に生まれ、虐殺されることもある。反省すればよいですが、地獄に落ちた人間は、反省する間もないほどの苦しみに襲われると言われます。だからこそ、他の人がその苦しみを軽減することで、悪いことをしたその人が仏になる可能性がある。
最初はご利益の為でも構いません。
利他行によって自分のカルマが減れば、それだけ人生の困難は減ります。
悪行をした人間は命を縮めると言われますが、見ていると困難が増えて、命を落とす機会が多くなっていると感じます。それを防げばたしかに、寿命は長くなる。善行をした人間は命を伸ばすと言われます。だから、最初は不運を避けたい、ご利益が欲しいでも構いません。
続ければ、やがて本物になります。
時には人に傷つけられて、善行どころではない事もあるでしょう。恨みに支配されて、我を忘れることもあるでしょう。
それでも、続けてください。
そうすることで、自分の中にたまった悪行を取り除き、スピリチュアルの目的である「心の平安」「霊格の向上」に至ることができると、私は考えています。